ニュースの概要
Science Based Targets initiative(SBTi=科学に基づく目標設定イニシアチブ)は、ネットゼロ(実質ゼロ排出)の新しい企業向け基準案を公表した。注目すべきは、2035年以降、大企業に対して炭素除去(カーボンリムーバル)の活用を正式に義務づける方向を打ち出した点である。これまでの基準は「まずは排出を減らす」ことが中心だったが、改訂案では「削減しても残る排出物は、信頼できる手段で除去する」という二段構えの設計を明確化した。一方で、中小企業には外部の排出検証の一部を免除する柔軟措置を採用し、現実的な負担とのバランスを取る姿勢も示した。市場関係者の反応は分かれる。基準引き上げによって除去需要が拡大し、カーボンクレジットや直接空気回収(DAC)の事業機会が広がると見る向きがある一方、要件の厳しさが企業参加を遠ざけるとの警戒も残る。改訂の最終確定を控え、SBTi内の意見調整と、企業のサプライチェーン(製造・物流・素材の調達先までを含めた取引網)全体に与える影響をめぐる議論が活発化している。
引用元: SBTi新ネットゼロ標準、カーボン除去の扱いを強化へ(Reuters)
分析・見解
義務化設計が問う「残る排出のあり方」
新しい基準案の核心は、条文に「除去」を明記したことに尽きる。従来のSBTi基準は、自主的な除去活用を促す間接的な書きぶりにとどまっていた。それが2035年を区切りに大企業に対し「残余排出の除去」を要件として組み込む形に変わり、企業にとって除去はオプション(任意の手段)からコミットメント(守るべき約束)へと位置付けが動く。つまり、削減努力を積み上げた先に「最後の詰め」として除去を必ず調達する設計が導入される。
この転換は、決してサプライズではない。IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の1.5℃特別報告書では、2050年前後に年間100億トン規模の除去が必要とされる経路が示されている。企業だけで世の中の排出をすべて削減することは難しいため、技術・自然の両面で残った排出を吸い上げる仕組みが前提となる。改訂案は、その現実を「SBTiの基準」という民間のルールとして埋め込んだと読める。
中小企業向け免除が示す「SME包摂」の戦略
基準案の中で見落とせないのが、中小企業に対する検証要件の緩和である。SME=Small and Medium-sized Enterprises(小規模・中規模企業)は、Scope3(自社ではなく取引先の活動から出る間接排出)まで含めて第三者検証を受けると、費用と時間の両面で大きな負担になる。今回の改訂案は、自社目標の設定に集中できるよう外部検証の一部免除を認める代わりに、将来的にはSME専用の軽量規格への取り込みを視野に入れている。
これは「基準を厳しく保つ」と「裾野を広げる」の両立をねらった設計であり、SMEが多く排出を地域に分散して抱える欧州や日本の産業構造に適応しやすい。特に中小企業比率の高い日本企業にとっては、SBTi参加の心理的・実務的なハードルが一段下がり、Scope3の開示要請が増える親企業からの要請に応じる糸口にもなる。
炭素除去の「中身」が問われるフェーズへ
もっとも、課題はここからである。「除去」を義務化すると書いたが、市場で流通する除去クレジットには、森林保全クレジットや再生農業、バイオ炭(=農林業の残さを炭化して土壌に埋める手法)など多様な種類があり、それぞれ耐久性(=一度吸収した炭素を大気に戻さない期間)と追加性(=そのプロジェクトが行われなければ削減されなかったという根拠)に差がある。
改訂案がこの差をどこまで厳格に線引きするかが明らかにならなければ、企業は調達段階で迷う。具体的に言えば、「30年で一部が戻る森林保全系」と「1000年単位の安定貯留を持つ直接空気回収(DAC)」を同一基準で扱うのかどうかで、企業の購入単価や交渉力は大きく変わる。最終確定版で、除去手段ごとの階層化や信頼性基準がどの程度書き込まれるかが、実務の分かれ目になる。
市場拡大の「量」と「質」の同時追求が課題
SBTi基準がRequlation(規制)に近い影響力を持つ背景には、世界の主要企業や金融機関が軒並みSBTi準拠を採用している事実がある。改訂案が確定すれば、基準準拠を目的とした除去クレジットの需要は確実に増える。ただし、市場の希薄性=取引量がまだ少ないという問題や、クレジットの二重計上リスクが解消されない限り、価格の乱高下は避けにくい。むしろ、信頼性の低いクレジットを大量に買って批判されるリスクのほうが企業にとっては切実である。
だからこそ、基準案と同時に進行している「Core Carbon Principles(CCPs)」などの国際的な信頼性フレームワークとの整合性が、今後の市場整備の焦点となる。
ビジネスへの影響
大企業の調達計画は「2035年に間に合うか」が判断軸
すでにSBTiへの登録を済ませた大企業にとって、今回の改訂案は中期経営計画の見直しを迫る。具体的には、2030年の中間目標に向けた「排出削減ロードマップ」と、2035年以降の「残余排出の除去調達計画」を分けて設計する必要がある。
ポイントは、除去クレジットの調達先を今から確保しておくことだ。需要が急増する2035年に近づくほど、価格上昇と高品質クレジットの枯渇が同時に進む可能性が高い。先行者メリットを活かすなら、早期にDACやバイオ炭、岩盤風化(=玄武岩などを砕いて畑にまくことで二酸化炭素を鉱物として固定する技術)といった高品質な除去プロジェクトと長期契約を結ぶことが現実的な選択肢になる。日本企業の場合、国内のDACやBECCS(=バイオマス発電と炭素回収・貯留を組み合わせた技術)案件は限定的であるため、北欧や北米への越境調達も視野に入れなければならない。
中小企業は「Scope3要請への対応力」をどう示すか
改訂案の中小企業向け緩和は、多忙な経営層にとって朗報だが、だからといって何もしなくていいわけではない。親会社や主要顧客がSBTi準拠を宣言している場合、中堅・中小サプライヤーには依然としてScope3排出データの提供が求められる。
実務的には、自社工場の省エネや電力的転換(=使うエネルギーを再エネや低炭素電源に切り替えること)の進捗、Scope1(自社で直接出す排出)とScope2(使う電気・熱に伴う間接排出)の数値把握を、可視化の段階だけでも始めておくことが肝要である。SBTiのSME向け軽量基準が確定すれば、後から改めて体系的なデータ整備を行うコストや時間を抑えられる。「免除」を生かすには、今から最低限の項目を揃えておくことが条件になる。
カーボンクレジットの「調達部署」を設置するタイミング
もう一歩踏み込んだ提案として、大企業・中小企業のいずれにおいても、「炭素除去の調達」を単発の環境部署の仕事にしないことが重要である。クレジット購入はエネルギー調達と並ぶ経営判断になりつつあり、購入単価の交渉力や中長期契約の条件設計では、財務・法務・サステナビリティの各部門が横断で動く体制が求められる。
特に、直接空気回収やBECCSのような資本集約型プロジェクトでは、株式出資・長期購入契約・前払い(pre-payment)などの手法を組み合わせる必要があり、財務トレジャリー(資金管理)部門の経験が不可欠となる。SBTi改訂案を機に、社内横断のタスクフォースを立ち上げる企業は、競合他社に先んじて市場対応力を高められるだろう。基準が大きく動く今こそが、内部体制を整える好機である。